今日は1冊の本を紹介させていただけたらと思います。
「わたしの遺書」中沢啓治著 朝日学生新聞社
漫画「はだしのゲン」の作者が原爆の恐ろしさと不屈の生涯をつづった最後の書です。
小さい頃に「はだしのゲン」を読まれた方も多いと思います。
戦争の残酷さを克明に描いた不朽の作品です。
残念なことに2023年度 広島市内の小中学生向けの平和教材から削除され、
市内では市民団体が抗議したり、本屋では上半期の売上が前年比15倍になったりと
反響が出ているようです。
日本に原爆が落とされたあの日から78年
今日は個人的な思いを書きたいと思います。
私は福岡県北九州市の出身です。
1945年8月9日
本来ならば小倉に原爆が投下される予定でした。
小倉に陸軍の兵器工場があり、
8月6日の第2候補地
8月9日の第1候補地でした。
その日、小倉の上空は曇り空。
見通しが悪かったため投下先が長崎に変更されたのです。
そんな事情もあり北九州市は平和教育に熱心でした。
折に触れて戦争や平和についての授業がありました。
夏休みの8月6日と8月9日は必ず登校し全員で黙とうを捧げました。
原爆や戦争の意味が分からない子供の時分は、夏休みなのに何度も学校に
行くことを正直面倒に思っていました。
でもその日のことを話す大人たちの神妙な面持ちを見て
「行きたくないと言ってはいけないんだろうな」
と子供ながらに感じていた記憶があります。
私が初めて原爆の恐ろしさに「触れた」のは漫画「はだしのゲン」でした。
小学校4年生くらいだったと思います。
通っていた児童館の本棚に置いてあったのです。
読んだことがある方であればご存じかもしれませんが、はだしのゲンの漫画描写は実に
残酷です。
子ども心にショックを受けたことを覚えています。
トラウマになる子がいるから読ませない方がいいと言う意見が出たことも
ネットニュースで知りました。
この件に関しては良い悪いなどのジャッジをするつもりはありません。
ただ、10歳の私にとってあのショックな体験は戦争の恐ろしさを「心に刻む」上で
貴重な経験になりました。
人間が人間ではない姿形になってしまうことがこの世の中にあるなんて…
「原爆はおそろしいものだ」と言う強烈な感情の記憶が残りました。
次に「触れた」のが21歳の時
長崎原爆資料館でした。
親友と九州旅行をした時に平和公園と原爆資料館に行きました。
今から30年前の原爆資料館の展示はダイレクトでショッキングでした。
むごたらしい写真を見ながら様々な感情が湧きました。
資料を読み、原爆についての知識や
なぜ広島と長崎に投下されることになったのか、
当時の世界情勢や第二次世界大戦下の日本の社会的な背景を理解しました。
その時は
「同じ人間なのにこんなむごたらしいことをするなんて絶対に許せない」
そう思いました。
私の母親は小学校の養護教諭で「教え子たちを二度と戦争に行かせない」
と言うスローガンのもと現役を引退した今でも、
同じ志を持つ先生たちと合唱(歌)の力を借りて反戦を訴えています。
小さい頃から母が食卓で「反戦や核兵器廃絶」を会話に出してくれていたので
私は日常で「触れる」ことができ、自然と関心を持つようになりました。
主人の転勤先が広島になり、45歳で初めて広島原爆資料館に行きました。
リニューアルされるタイミングの前後に行ったので、どんな風に展示が変わったかを
見ることが出来ました。
リニューアル前は30年前の長崎原爆資料館と同じように残酷な写真や放射能の恐ろしさが
迫ってくるような展示でした。
リニューアル後は、
当時の市民の生活や被爆直後の様子を感じ取れるようなコーナーが追加されていました。
「爆風でぐにゃぐにゃにひん曲がった三輪車」
「熱で変形した掛け時計」
「原型をとどめていない鍋や農機具」
3000度の熱風のすさまじさが伝わってきます。
「血染みのついた洋服」
「壊れたおもちゃ」
「召集令状の赤紙」
「戦地から届いた手紙」
「楽しそうに笑っている家族の写真」
今と同じ普通の人々の暮らしがそこにありました。
78年たった今でも遺族の方から展示に使って欲しいと遺品が続々と届くそうです。
私はその遺品を見て涙が止まりませんでした。
何の罪もない人たちにとってのささやかな日常が一瞬にして粉々にされ地獄と化したのです。
展示コーナーの写真の中にいる人は遠いところにいる赤の他人ではなく、
私でした。
核兵器が生み出す恐ろしさと深い悲しみを、
より自分のこととして捉えられたような気がしました。
「自分や家族や友達がこんな目に合ったら?」
「これは決して他人事ではないのだ。」
その場で涙が止まらなくなった私は
「こんな悲劇は二度と繰り返してはいけない」と思いました。
その後、書籍コーナーで中沢啓二さんの本と出会ったのです。
中沢さんが戦争漫画を描こうと思ったのは被爆してから21年後
27歳の時
女手一つで3人の息子を育てたお母様が亡くなったことが
きっかけだったそうです。
火葬場でお母様の遺骨を拾おうと思ったら、
遺骨が「骨」のかたちをしていなかったそうなのです。
放射能が長い時間をかけて骨まで破壊していたのです。
中沢さんの中から「猛烈な怒り」と「悔しさ」「憎しみ」が湧き上がります。
「アメリカが自分たちにしたこと、この放射能の恐ろしさを絶対に知らしめてやる」
そんな恨みの気持ちを込めて戦争漫画の制作はスタートし、
のちに、はだしのゲンの誕生に繋がっていったそうです。
まさか自分が戦争漫画を描くことになるとは夢にも思ってなかった中沢さんですが
当時の日本人の原爆に対しての価値観
「仕方がなかった」
ではダメだと思ったそうです。
「仕方がない」ではなく「絶対に許せない」その価値観にならないといけないのだ
と思ったと本の中で語っておられます。
中沢さんがお亡くなりになられた後、奥様が取材でお話されていたのですが、
「描写があまりにも残酷だと漫画が売れない、
売れないと多くの人に読んでもらえないから
表現をセーブせざるをえなかった」と。
(中沢さんの)父親、姉、弟が爆風で倒れた家柱の下敷きになって、身動きが取れない状態で
燃え盛る炎の中、焼け死んでしまった場面を描く時には
「熱かったろう、苦しかっただろう…」と泣いてしまい、筆が止まった時もあったそうです。
「子供たちに原爆の恐ろしさと実相を伝えるんだ」
「知らないほど怖いものはない」
爆心地から最も近い小学校で被爆した中沢さんの決死の思いが伝わってきます。
そんな中沢さんが書き記してくれたこの本には広く知らされていない真実が
たくさんありました。
1945年 8月6日 午前8時15分
・広島に原爆が落ちた瞬間の描写
・直後の広島で6歳の中沢さんが見た地獄絵図
・戦後の被爆者差別と当時の日本人の価値観
・被爆者を一生苦しめた後遺症のむごさ
・アメリカ政府の非人道的な対応
中沢さんが体験したことが赤裸々に文章と絵で語られています。
戦争経験のない私が2度と繰り返してはならないと思えるようになったのは
小さい頃に触れさせてくれた大人たちのおかげです。
教えてもらわなかったら知ることができなかった。
関心を持ち続けることは出来なかった。
友達が広島にお子さんと一緒に遊びに来てくれた時に、
観光よりも「原爆資料館」を真っ先に選択したことこそが、
私たちが大人から受け継いだバトンを子供たちに渡している
ことなんだと思いました。
戦争に対しての価値観は育っていくものだと感じています。
大人たちが自らの価値観を育て子供や孫の世代に伝えていくこと。
自分らしいやり方で伝えるにはどうしたらよいのかを考えること。
そういった小さな意思やささいな行動がバタフライエフェクトとなって
広く影響し合うのではないかと感じています。
私が心理療法に出会ったきっかけはごく個人的な悩みによる生き辛さでしたが
その療法を生み出したロバート・グールディング博士(アメリカ人)が、
なぜ心理カウンセラーをしているのですか?
と、お弟子さんに聞かれたときに
「世界平和のためだよ」
と答えたエピソードを聞いて、自分がやっていることが世界平和に
繋がるのかもしれないと思うと勇気づけられました。
攻撃ではなく分かり合おうとする気持ちを持つこと。
対話を通して相互理解のために何ができるかを考えること。
そのために役に立つことをお伝えしたい。
仕事を通して「世界平和」のために出来ることを
積み重ねて行きたいと思っています。
2012年にお亡くなりになられた中沢さんが一生を通じて伝えていた言葉があります。
「人生にとって最高の宝は平和です」
この言葉を79年目の8月9日に嚙みしめています。